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視覚障害者就労相談人材バンク ~私たちの就労経験を伝える~

就職活動検討分科会 実施報告 第一部
「視覚障がい者で、就労をめざす皆さんへ。私達からのメッセージ」

このページの目次

このページには11名の視覚障害当事者の体験談が収録されています。

事例1:女性 視覚障害者施設訓練指導員 50歳代

見え方…右眼 手動弁、左眼 0.01

私の転職・就職活動についてお話します。私は、生まれつき見えにくいという状態でしたが、障害者手帳を取ったのが30歳を回ってからですから、ずっと自分が障害者に当たるほど見えないということを知らずに過ごしてきました。なので、障害をクローズにするつもりはないけれど、何の支援も無く就活をしていました。

普通のOLになるということが自分には難しいとわかっていました。それは、事務作業が難しいからできないということではなくて、普通に見えている人と同じ速度で物事を処理できないからです。学びの場では事前に時間をかけて準備するなどという方法がとれます。しかし、仕事になると決まった時間の枠の中で作業しなくてはなりません。「みんなと同じ速さでは無理な自分に、いったい、何ができるだろうか」ということを模索し続けた20代でした。

既存のフォーマットの中に落とし込むことは難しいけれど、何も無い真っ白なところから作り上げていくことなら自分にもその土俵で戦うことができる、そんな粋がった思いもあって、文章を書く仕事をめざしました。

その当時のライター志望の就活は履歴書を持ってというものではなく、アルバイトで入って使い物になるかどうか試されるというような風潮がありました。ジャーナリストの専門学校に通いながら、コピーライターのアルバイトなどをしていました。「何とか使ってやろう、育ててやろう」とありがたいお言葉をオーナーから頂き、広告代理店で内定もいただきました。ほかにも京都観光の冊子の記事を書いたり、新聞社の企画ものの取材をし写真もとり記事にしたりしていました。また、地方紙の校正作業から修行してみないかというお話もいただきました。それは原稿用紙に直接赤字で校正を入れる作業です。文字を読み取ること、赤字と黒字の区別ができない自分には無理なため、ありがたいお話をお断りするしかありませんでした。このようにいくつか内定をいただきましたが、結局私の恩師の経営する会社でフリーランスで活動することになりました。フリーランスであったことには家庭の事情がありました。時はバブル崩壊の大きな波の中です。父の事業の手伝いをしながら記事を書く仕事をすることになりました。しかし、私が23歳の時、突然に父が他界しました。父を亡くしても会社は残ります。事業でお世話になった皆様に一切のご迷惑をおかけしないよう、弁護士と相談しながら法的な対応をしていきました。慣れないことばかりでしたが、2年ほどかけて会社を清算しました。

25歳を過ぎたころから取材先に自分一人でたどり着くことが難しくなり、文章を書くことをあきらめました。家庭教師の派遣と教材の営業をしている会社で6年間アルバイトをしていました。中高生の保護者の方からの悩みをお電話で拝聴し、教材の営業をし、大学生のバイトさんたちの指導をしていました。

視覚障害者になってからの就職活動は多難でした。主人が転職し経済的にしんどくなり何でもよいから働きたい、パートのおばちゃんをしたい、さあ、どうしようかとなりました。こういうことは障害の有無に関係なく起きることです。でも、障害者が普通のパートのおばちゃんをするってとっても難しいことなのです。

その頃から、障害者の就活サイトはウェブ登録でした。一方、求人はウェブではなく、紙の履歴書を出して書類選考があって面接という流れでした。ハローワークに何度も行ったりとか、皆さんがされることと同じことをしましたが、ことごとく落ちました。合同面接会では音声パソコンを持ち込み、自作の資料でプレゼンテーションをしました。限られた時間で自分のできることの「見える化」をしました。一目瞭然で白黒反転と音声があればできることが何かを伝えることができるからです。合同面接会で感じたことは、雇用側によっては最初から希望する障害種別があるのだろうということです。視覚障害の方を雇い入れる気持ちはないという前提で面接がスタートすることもありました。「視覚障害者の方の雇用前例が無いので難しいのだけれども、能力があるということはわかるので、あなたのその頑張りを聞かせてください」というところからスタートする面接もあったくらいです。

自分が完全否定されるというか、「あなたはいらないよ」という中でも面接の時間を頂戴できることは、次にめざす人のためになるだろうと前だけを見る気持ちで、体当たりしていました。受付業務の求人では、仮で内線番号が即時に表示されるような表を準備していきました。その場でエクセルを操作し「内線番号です。すぐに電話をつなげます」とアピールしたり、実際に聞き書きをしてみていただくこともありました。雇用側が求めるスキルを想定して、面接でのプレゼンもより具体的に準備しました。どうしたらできるか考えて先に行動する、この経験は今の私の業務につながっています。

京都ライトハウスの就労支援事業所FSトモニーに履歴書のアドバイスをもらっていたこともあり、縁あってトモニーでテープ起こしの訓練を受けました。トモニーの利用者として2年お世話になりました。テープ起こしの作業訓練は6か月のみ、以降1年半は実習扱いで今の職場である障害者支援施設鳥居寮でアルバイトをさせていただきました。実習とは言え、週4日パソコンと点字の訓練を担当させていただきました。私は訓練生だったころから、いつか京都ライトハウスに恩返しをしたいという思いを持っていました。だから、どうにか鳥居寮で自分の能力を発揮したいと何度もアピールしてきました。

実は、雇用が決まったのは入職するわずか1カ月前です。この1年半、私は言われたことだけをしていたわけではありません。自分で点字のテキストを作成し提案していました。かつて訓練を受けた体験から見えた課題を踏まえ、パソコン訓練ではオリジナルの工夫もしていました。職員にしてみると、うっとうしいアルバイトだったことでしょう。今思えば使い物になるかどうかのトライアル、この1年半は試験期間だったのだと受け止めています。

私の職場は視覚障害の生活訓練の施設です。職業訓練校ではないですが、「仕事」の課題や目標を持った方々が訓練に来られます。私は仕事の中で就活に関することを担当しています。就活、転職、在職の訓練の方もたくさんおられます。それぞれのお困り事、「エクセルでこのようなものを作りたい」というピンポイントのご相談にも対応しています。業務に必要なフォーマットを作成し、ご提案することもあります。していたような感じです。そして、お若い方。盲学校を出てきて、「これから何をしようか」という人も来ますし、中途障害で一旦利殖されてという方の就職活動にも関わっています。何人もの方が私どもの訓練を受けて就職されています。公務員試験対策では、「40分間で~のテーマで作文を書きなさい」というのを本番さながらに実施し、即作文内容のフィードバックをするなどもしています。また、障害者就労関連の公的機関である京都ジョブパークのハートフルコーナーと連携し、就活準備セミナーを出張で実施していただいています。このセミナーでは、面接実技や挨拶、お辞儀の仕方などリアルな技術に関するものを、見えない見えにくい人に伝わる配慮をいただきながら実施していただいています。鏡が見えないと正しい姿勢や目線の送り方ということがなかなか自分では確認できません。見える人からの評価を得ながら、体でおぼえていきます。また、コミュニケーションスキルについてのセミナーも入れています。職場では自分1人が視覚障害者だということがほとんどですから、それを想定して周りとコミュニケーションを取るためにどのような心構えが必要かなどを考える機会をつくっています。

関連機関の職員さんとやりとりする中で、視覚障害就労の啓発につながるよう心がけています。出張セミナーも、見えない見えにくいけれどこうすれば力が発揮できるということを就労関連機関の職員さんにお伝えするチャンスでもあります。また、就労期間の職員さんに訓練をご見学いただく際には、どのような訓練を経てこのようなことができるようになったということを利用者さんに説明してもらうことにしています。自分の「できる」を具体的に簡潔に伝えられるよう準備し、実践する場としています。

ふりかえれば自分の就活はいつもトライアル、体当たりの先に道がありました。私がかかわった支援、活動の中での出会い、多くの皆様の御体験は尊いものです。時に遠回りや徒労に終わる経験も多いです。今後も自分の就活体験だけでなく、活動の中で出会った事例を財産とし、視覚リハビリテーションの場ならではの寄り添いをもって支援していきます。

事例2:女性 在宅での文字起こし

見え方…光がわかる程度の全盲

私は、現在34歳で、在宅ワークをする傍ら、就職活動中です。これまで就労経験が豊富な訳ではなく、就職活動をずっとしていたというわけでもなく、経験は少ないのですが、3、4年前までは、在宅ワークで契約社員として働いていました。現在は、請負で文字起こしの仕事をしています。

契約社員のほうは、契約期間が満了となり、現在、仕事を探しているという状態です。

就職活動についてなのですが、現在利用させていただいている、就労移行支援のほうでZoomを使ってワードやエクセルの訓練を受けながら、求人サイトへの応募を就労支援員さんにサポートしていただきながら行っています。

しかし、やはり視覚障害者で在宅ワークというとかなりハードルが高くて、これまでに7社ほど応募しているのですが、書類選考も通過しないという状態です。その中で、私が心掛けていることがありまして、企業の方とは、面接の時にしかお会いできないので、自分の障害状況や配慮をしていただきたいという内容をしっかりとわかりやすい文章で履歴書や職務経歴書に書くことを心がけています。今は、書類選考で落ちることが多くて、気がおれそうになることもありますが、これからも何とか頑張っていきたいと思っています。

事例3:男性 事務職 30歳代

見え方…中心暗転、左眼にわずかな視力

現職に就いて4年と半年程が経過しております。私は、25歳の冬頃に緑内障の診断を受け、視覚障害者になりました。当時、大学の卒業がうまくいかず、休学をしながらフリーター状態という形で仕事をしました。2、3社程体験している中で目の症状が出ました。診断を受けてから実家に戻りまして、そこで京都ライトハウスさんのお世話になりながら可能な所でアルバイトをするという形で2年程過ごしました。今の職場への就職に当たっては、ライトハウスさんの紹介で京都ジョブパークの「はあとふるコーナー」に就労相談をしました。そこで職務経歴書の書き方や、ハローワークと並行して職場斡旋や実習手配をしていただいたりしながら今の仕事に就きました。

入社前に行った実習は、合計5回あります。1回目は、同じような見え方をされている先輩で、特例子会社で働いておられる方の職場見学をさせていただきました。2回目は、その方と似た職場環境を仮設していただける会社を紹介していただき、「直接雇用はできないけれども、体験をすることはできるよ」という機会をいただきました。3回目から5回目は今の職場の実習をさせていただきました。2回目の実習中に今の職場の人事の方が私の働いているところを見に来てくださいまして、拡大読書機や、パソコンの音声ソフト、Windows内蔵の拡大鏡を使ってどのようなことができるのかを見てくださり、以降の実習が叶いました。3、4、5回目と月に2週間程の実習を同じ部署でさせていただく中で、「その部署で働くうえでの環境整備と必要な配慮の相談」を教育を受けながら少しずつ進めていき、面接を経て今の職場に至りました。

流れとしてはこのような形ですが、今回は、途中で書きました職務経歴書についてもう少しお話しします。私の場合は、見えにくくなる前に働いていた経験がありました。その頃にはできていて、発症後できなくなったことは何なのか。逆に、今もできることは何なのか。当初は自分自身でもよく分からなかったり、1人では受け入れ辛かったり、という部分がたくさんありました。

そこで、2、3カ月ほどかけて何度も「はあとふるコーナー」にお邪魔しながら、担当の方と一緒に職務経歴書を作成しました。まずはそれまでしてきた仕事内容、経験を視覚障害とはまったく関係ない形で経歴書に起こしました。その中で、「では、自分が見えにくくなってできなくなったことは何だろうか。見えにくくてもできることは何だろうか。頑張ればできるけれど、見えにくいことで人一倍時間や負荷がかかることは何だろうか。」ということを話し合いながら整理しました。そして最終的に、これまでしてきた仕事や経験の中で、どの部分であれば引き続きできるのかということと、今はできないけれど、見えにくくても工夫次第で再びできるようになる部分、可能性を広げ得る部分はどこなのかを職務経歴書という形で作成しました。そして、実習による更新を重ねた上で今の職場の方に見ていただき、就職に至りました。

事例4:男性 事務職 60歳

見え方…両眼錐体杆体ジストロフィ 手動弁・強度の夜盲

私の場合は、自営業からサラリーマンへの転職ということで、平成19年の春まで、今年でちょうど15年目になるのですが、15年前まで私は、地方でカメラマンというか、営業写真館というのですが、街の写真屋さんですね。スタジオで結婚式や七五三などの記念撮影、同窓会や歓送迎会などの記念写真、学校の卒業アルバム制作、飲食店のメニュー制作などなど、田舎ですから、お声をかけていただくだけでありがたく、何でもやっていました。徐々に徐々に目が悪くなって、それは、「あまねく届け! 光 ~見えない・見えにくいあなたに贈る31のメッセージ~」に収録されておりますので、ぜひそちらを手に取っていただければと思うのですが。それから、子どもがまだ中学校に入ったばかりと小学生と小さかったのでとりあえず、「田舎ではもう無理や」ということで、写真屋を辞めまして、その時に妻の実家が関西にあったので、とりあえず家族でそこに転がり込みまして、まだその時は視力が0.3くらい。メガネや矯正は無理ですが、裸眼で0.3あったので、ゆっくりであれば、自転車にも乗ることができるくらいの程度でした。

そこから妻の父親の知り合いをたどっていきまして、兵庫県の会社の総務部労務課というところで安全衛生とか、社会保険や給与計算などそのようなことをする部署ですが、そこへ。これはもう、就職試験を受けるとか、そのようなことではなく、もう単なる口利きで、向こうの会社も障害者枠が足りないということで、ちょうどよいということで「手帳のコピーを取らせてや」ということでありまして、徐々に徐々にそこで悪くなっていく中、京都ライトハウスに1回だけでしょうか。行ったのです。しかし、「うちは就職の世話はできません」と言われたので、「仕方ないな」と思って、あと、支援団体、当事者団体、ライトハウスがどのような所かもまったく知らず、ただただもう、全世界の中で視覚障害者は私1人といったような状態で、約7年間勤めまして、そこで工場の中を歩くのも怖くなり、会社のほうも嫌そうな感じだったので、50歳過ぎてましたけど、会社を辞めました。

それからハローワークに行くと、吉備高原の国立職業リハビリテーションセンターという所があるので、「岡山の吉備高原へ行ってみませんか」ということでそこへ24カ月。「視覚障害者のコースは24カ月の1つしかありません」と言われて、仕方ないなということで行きまして、1年と9カ月なので、21カ月間、訓練をしました。

「関西は、スクリーンリーダーJAWSはあまり使っていないので」と言われ、私も何もわからないので、PC-Talker一本で始めて、とりあえず、タッチタイピングができるようにと言われて、ひたすらそれをやり、Excelをやり、Accessをやり、Wordをやり、そしてマクロも少しやりなさいと言われてやり、途中から就活ですが、「年の数くらいは落ちるでしょう」と言われて、40社くらい落ちて、そして今の会社に拾われました。

訓練したことが今、役に立っているのかな、どのようなところが合格できなかった、履歴書を送ってもダメだったのは、おそらくは、「通勤できないだろう」と思われている間隔が結構ありました。「能力があることはわかったのですが、うちは大通りなのですよ」、「うちは少し駅から遠いのですよ」ということをとてもたくさん聞きましたので、視覚障害者は、通勤ができないのだと思われているなということを強く感じました。そして今に至っております。

事例5:女性 パソコン講師・視覚障害者への就労支援

見え方…光を感じる程度

私は、先天性の視覚障害でしたから、視覚障害のある中での就職活動ということになりました。自分の中でも学生の時から、「就職活動は苦労するだろうな」ということはわかっていましたので、卒業する2年前から就職活動を始めました。

とりあえず、右も左もわからない状態でしたので、ある支援機関にダメモトデ電話をすると、「サポートをしてあげるよ」といわれたので、そちらで履歴書をチェックしていただいたりとか面接の練習をしていただいたりしていました。また、学生でしたからたまたま、私が大学でお世話になっていたボランティアサポートの方と学生の就職活動をする職業サポートセンターの所長さんが仲良しで、私が困っているということでその職業センターの所長さん自らが非常に動いてくださって、就職活動をサポートしていただきました。所長さんがいろいろな企業に電話を掛けてくださったり、企業さんに私を紹介してくださったりしたのですが、やはり、「1人で会社に行けないよね」とか、「会社の中で1人で移動することはできないよね」などと言われて、なかなか採用には至りませんでした。

そして、私が就職活動をしている時にいつも心掛けていたことは、面接などで「来てください」と言われた場合は、必ず1人で行っていました。家から会社まで。それが初めての所であっても、道がわからなくても1人で行っていました。なぜかというと、誰かと一緒に行くとやはり「この人は、1人で会社に来ることができないよね」、「1人でどこへも行けないよね」と言われることがとても嫌だったことと、やはりそう思われると就職にはつながらないのかなと思いまして、1人で出歩いていました。

結局、学生の間というのは、70社か80社かもう忘れましたが、100社近くは受けたと思うのですが、なかなか採用には至りませんでした。よく、企業さんからも私は字が点字でしか読めないので、「あなたは字を読めませんよね」とかいうことをよく言われました。そうなのかなと思いながら。その時は、やはり気持ち的には非常にしんどかったです。

そのような中、いよいよ卒業もありますし、なかなか決まらない中、たまたま、現在の職場の求人を見まして、正直、現在の職場がどのような所かもよく知らなかったのですが、駅からとても近かったので、これだと私でも道に迷うことはないですし、「1人で通勤ができますか」ということも言われなくてすむのかなと思ってこちらに応募しました。

すると、たまたま採用していただけて今に至ります。

現在は、パソコンの講師をしておりまして、視覚障害者の方にパソコンの基礎からOfficeの使い方まで一緒に勉強したりですとか、あと、盲ろう者の方のサポートということで、ブレイルメモとかブレイルセンスまたパソコンやiPhoneやアンドロイド端末などいろいろな端末の使い方の練習を一緒にしています。

事例6:女性 事務職 30歳代

見え方…全盲

私もほぼ先天性の全盲で大学に通っていたのですが、本当は私は大学院へ行きたくて心理系の大学院への受験勉強をしていました。ただ今の実力だとどうしても受かる確率は少ないだろうと考え、晴眼の学生たちが就職先を決めているような大学4年生の7月夏休みに入ってから就職活動を始めました。「決まらなければ浪人をして大学院へ行けばいいや」くらいにしか思っていませんでした。

就職活動は民間の障害者向け就職斡旋会社の面接会に行きました。履歴書のほかに、手帳のコピーですとか自分の障害の説明だったりとか、「このようなソフトや機器を購入してください」という使用機器のリスト等を面接会に持って行き、ひたすら求人募集をしている所に履歴書を出しました。

「面接に来ませんか」といくつかの会社から言われて、会社で受ける面接の時は必ずパソコンを持って行って、「本当にパソコンが使えるのです」というようなことを説明しました。あとは、できることとできないことですね。例えば、データ入力とか文字を入力することはできるけれども、レイアウトは完璧には直すことができないかもしれないし、困っている時は案内をして欲しいというようなことをお願いしました。

そして今の会社から内定が出た後に、「4日間くらいアルバイトに来ませんか」ということで、仕事とは言えない形ばかりのアルバイトに4日間くらい行きました。その間に歩行訓練もしてもらいました。会社に慣れるということと、どのように仕事ができるのかということを見てみたいということもあったらしいです。あと社内のオフィスからお手洗いへの移動なども歩行訓練で教わりました。

弱視の方はいらっしゃったようですが全盲は1人だということで、したいようにできるからラッキーだなと思って好きなようにしようと思い、自分が働きやすいようにいろいろと注文を付けました。

仕事は障害者採用関係の仕事や一般職内定者懇談会、人権学習会などの資料を作っていました。ただその年の7月に白血病を発病しまして、翌年の同時期に今の部署に異動してきました。

今の部署はIT関連に関する事務で、携帯電話の管理やグループウェアなどのID、そしてメールアドレスなどの管理などをしていました。ただ途中で仕事が無くなった時期があって仕事がないならと転職活動もしたのですが、今の会社ほどどこも福利厚生が良くなかったので、納得しつつ内定も出なかったので転職はあきらめました。今は同じ部署で同じような仕事をしています。コロナの関係で去年から在宅勤務が中心となりました。

事例7:女性 事務職 20歳代

見え方…弱視、拡大して文字を読む

就職経験をお話する前に、学生の頃のお話をしたいと思います。私は先天弱視として地元に生まれ、小学校・中学校を地域の学校で過ごし、公立高校、地元の大学に進学しました。大学卒業後は京都に就職し、現在社会人3年目です。

自分が視覚障害者であるということは幼いころから認識していましたが、学校で特別に配慮を受けたことはほとんどありませんでした。大学入試のセンター試験を特別受験で受けさせていただいたことくらいです。

友人と同じようにできないこともありましたが、自分で工夫しながら学校生活を送りました。そんな中でやってきた就職活動です。

私が就職活動で困ったことが2つあり、1つが情報収集、そしてもう1つが家族の説得です。特に、情報収集は本当に困りました。ほかの視覚障害者の方や、支援団体とのつながりがまったく無く、「企業には障害者採用というものがあるらしい」くらいしかわかっていませんでした。ですが友人と同じような就職活動では就職が難しいと思っていたので、早めに準備を始めました。

まず大学2年のときに大学の就職支援課に相談をしました。「自分は、視覚に障害があるので、どのようにして就職活動をすればよいですか」と相談をしたところ、「ここではわからない」と言われ、地域の就職支援施設でも相談しましたが、「専門外だからハローワークに行って欲しい」と言われました。そしてハローワークに行くと、結局、地元には障害者採用の企業はなく「就労施設ならありますけど、いかがですか」という話をされました。

まだ2年生で早かったことと、教員を目指していたことから、一旦は就職のことを考えないでおこうと思いました。ですが教育実習を終えて、一般企業に就職したいと思うようになったので、4年の春に改めて就職支援課へ行きました。そこでウェブ・サーナ(障がい者のための就職・転職求人サイト)というものがあることを伺い、そこから就職活動を始めました。

そのように情報収集もなかなかできない状態で就職活動を進め、何とか自分の行きたい企業を見つけることができました。

ウェブ・サーナを教えていただいてから、企業面談会に参加して他の就活生ともつながり、ほかに「クローバーナビ(障害者のための就職サイト)があるよ」などという話も聞きました。

もう1つ困ったのが、家族の説得ですね。私は、ずっと地元で家族と一緒に生活していたので、自立や一人暮らしなどを両親が心配し、県外就職を反対されました。地元では車に乗れないと生活できないので県外に出たかったのですが、とても心配されました。県外就職を了承してもらうため、金銭面や生活面などを調べ、地元と県外での生活の違い、将来のリスク、メリット・デメリットをまとめて両親と何度も話し合いをしました。

そのように就職活動では、情報収集と家族の説得に苦労しましたが、どちらも根気強く向き合うことで無事に現在の就職先に就職することができました。

事例8:男性 事務職 40歳代

見え方…明暗がわかる程度

今は明暗がわかるくらいの見え方ですが、就職活動をした時は、弱視でした。先天性の弱視として、地域の学校に行って、高校・大学と通いました。見えていた時の視力は0.1くらいでしたが、大学での就職活動の時は左片眼の0.02くらいでした。

今から約25年前の就職活動ですから、障害者への配慮や音声パソコンはありませんでした。今、当たり前のように使っているPC-Talkerというものは無く、アナログ時代の就職活動でした。

地域の学校に通い、大学までは何とかかんとか健常者と一緒にしてきたつもりでしたが、就職活動は、思った以上に苦戦をしました。今までは、勉強で高い点数を取ればそれで評価されていたのですが、就職活動はそうではありませんでした。

大学3年の終わりくらいから就職活動を始めました。まず、一般の学生と同じように企業説明会に行きましたが、これは自分の弱視という障害では難しいと思いました。一般の就職活動の中で、試験での拡大や時間延長の配慮などを言っても反応がまったくありませんでした。そのため、サーナやクローバーといった障害者対象の就職活動に切り替えました。アナログ時代の就職活動ですから、資料は紙媒体でした。

障害者を対象とした就職活動ですが、僕の場合、面接に行っても、重度の弱視でしたから、それが原因で進みませんでした。文字処理をするのに拡大読書器が必要だったり、「この人にどのような仕事ができるのかな?だったりでなかなか進まず、障害者対象の就職活動でも苦戦しました。

ハローワークが主催する障害者を対象とした就職活動があり、大阪と名古屋の会場に行きました。50社~60社が来ている所で、それぞれ10社くらいの企業に面接を受けましたが、「拡大読書器は用意はできませんね」、「視覚障害者の前例はありませんね」という理由でこちらでもうまくいかなかったです。ダメモトで東京へ行きました。大阪や名古屋では、50社から60社でしたが、東京は規模が違い、300社くらいの企業が集まっていました。

結果的にはその東京の障害者を対象とした就職活動に行って、今の会社に面接を受けて、決まりました。

今、振り返って、うまくいかなかった理由は、自分がこのような仕事をしたいという明確なものがなく、また、業種をバラバラで受けていたので、志望動機をしっかりと言えなかったからだと思います。これは、見えている、見えていないに関係のないことです。そして、面接の受け答えもあまり良くなかったように思います。ある電鉄会社の面接では、4年制の大学を出て来るということは、総合職のため、「電車の運転もありますが、できますか」とか、全国規模の会社の面接では、「全国転勤がありますが、可能ですか」と言われたときに即答できませんでした。今、自分が社会人の立場からみると、このような受け答えが就職活動を苦戦させたのだと思います。

今働いている会社の面接を受けた時は、何十社も受けていましたので、開き直ったのか、リラックスができていたのか、明るく明確に答えることができたように思います。重度の障害が理由でうまくいかなかったこともありますが、面接での受け答えがスムーズにできたから今の会社に決まったように思います。

結果として、100社を超える会社にアプローチをしましたが、内定をもらったのは今働いている会社1社だけでした。就職活動の体験談を話すと、「100社も受けないと決まらないのですか?」と驚きの声を聞きますが、100社やって決まるのであれば、やればいいと思います。

就職活動をした25年前はアナログでしたので、履歴書は手書きでした。何十枚も手書きをしました。1文字でも間違えると何十分もかけて書いたものを書き直しをしました。関西から、わざわざ東京の面接会にも行きました。また、基本的なことですが、面接会場までは、自力で行きました。初めて行く場所は不安でした。絶対に遅れることはできませんので、数日前に下見に行ったり、当日早めに出かけたりしました。

つまり、やることはやりきり、最後までとことん、就職活動に向き合えたからこそ、今の会社に巡り会えました。

事例9:女性 事務職

見え方…中心暗転、外側が結構見えている

私の場合は中途障害で、社会人になり、会社勤めもかなり経験した30代後半で視覚障害の診断を受けました。手帳取得後は一度だけ転職を経験しましたが、診断を受ける以前から、ゆくゆくは転職したいと計画を立てていました。そのため進行性の病気がわかっても諦めきれず、手帳を取る前にどうしても転職をしたい、健常者として転職をしたいと焦り、思い切って手帳を取らずに病気をオープンにせずに転職活動をしたのですが、やはり通勤時に遮光眼鏡が無いと通勤ができない等、健常者を装うには厳しい状況になり、その段階で病院からの勧めで手帳を取得し、障害をオープンにして再度、転職活動をやり直して今の会社に入社しました。

転職活動も視覚障害に関しての情報を持っていなかったので、どのようにすれば良いかわからず、ネットで「視覚障害 転職」という感じで…検索をして、クローバーナビ(障がい者のための就職情報サイト)を利用して、2社に履歴書を送って、どちらも好感触で話は進んだのですが、今になって思うことは、自分が自分の障害をまったく理解できていないまま入社してしまったので、後々、苦労したということです。

やはり自分が前の会社で約10年勤めていて、その頃はそんなに不自由を感じていなかったことから「私は何でもできる。ほぼ健常者と変わらない。」と思っていて、病院の検査結果の説明も受けて手帳取得も勧められているにもかかわらず、自分が病気を全然理解しておらず、気持ちの焦りもあり、面接の時に自分の病気のことを聞かれて、「何かできないことなどありますか?」と聞かれても、今まで健常者と同じようにしているので、何でもできるというようなアピールをしてしまいました。

色がわからないことや屋外では遮光眼鏡が必要なことは伝えたものの、「真ん中が見えないけれども読み書きも定規を当てるとできます」とか、「パソコンも普通のパソコンを少し設定を変えただけで、使えます」とか視覚障害者のための補助具を知らないということもありますが、説明不足のまま入社してしまい、入社の初日から事務所が明る過ぎて目を開けることができない等、とても苦労しましたので、やはり気持ちの整理がつかないということもあるのですが、焦らず冷静に、自分の病気をよく知ること、自分と健常者との違いをよく知ること、しっかり視覚障害の情報収集をして、自身を客観的に観察した姿を企業に伝える事を心掛け、就職・転職活動をすることが、入社後をスムーズに進めるポイントと今は感じています。

事例10:女性 40歳代 電話交換手

見え方…すりガラスのようなボヤっとした見え方

民間企業で電話交換手をしています40代女性です。見え方はすりガラスを通して見ているようなぼやーっとした感じです。これまでのことを振り返りながら転職や就職に関して経験してきたことを少し書かせていただきます。

私はこれまで3つの職場でお世話になりました。大阪の鶴見区にある日本ライトハウス視覚障害リハビリテーションセンターの電話交換課で学び、東京の民間企業への斡旋を受け電話交換手として就職しました。人事担当者との面談は初めての経験でしたので、指導員の先生の教えに従って身なりを整え質問にははきはきと答えることを心がけました。先生の強い推しのおかげで無事東京の職場に就職することができました。家庭環境が複雑だった私は、1日も早く就職し母を助けたいとの思いで必死に訓練に取り組みました。働きたいという強い意志が人事担当者にも伝わったのかもしれません。

2社目は集団面接会で電話交換手を募集しておられた百貨店にエントリーしました。弱視だった私は、手書きとワープロで作成した履歴書を提示しました。第一印象はとても大切だと思いますので、明るく清潔感のあるよいイメージをもっていただくために、シワや汚れのないリクルートスーツに白いブラウス、そして足元にも気をくばりました。髪の毛はきっちりまとめ、メイクはナチュラルに。笑顔で明るい発声を意識しながら、単独歩行での通勤が可能とのことや仕事では拡大読書器の使用で文字の読み書きができることなどを伝えました。視覚障害者がどの程度のことまでできるのか認識できていない企業さんも多いかと思います。ご自身ができることはしっかりお伝えし、機器の使用で作業が可能になるようでしたらそういうこともお話された方がよいかと思います。

2次面接は職安の方とともに直接百貨店へ伺いました。その際、職安の方からは「先方がおっしゃることには全て はい できます。と答えてくださいね。」と言われました。えっ?とは思いましたが、付き添ってくださる職安の方の指示に従いました。3次面接をクリアし、やっとの思いで採用していただきましたが、結局のところ電話交換ではなく店内アナウンスをメインにお仕事させていただくこととなりました。なにに対してもできると答えてしまっていた私、もし電話交換手として雇用されていたら、きっと誰にも協力してほしいと声に出せず辛く苦しい日々を送っていたことと思います。やってみないとわからないことはたくさんありますが、仕事に就きたいからといって、できないことをできると伝えてしまうのは後で自分の首をしめることになりかねないので、正直に受け答えすることが大切だと感じました。

電話交換手以外の仕事につき、私はやっぱり電話交換の仕事が好きなんだ、電話交換手として働きたいという気持ちが強くなりました。転職はすごく勇気のいることですが、当時私はまだ20代半だったことと独り身だったこと、そしてなにより電話交換手としてもう一度働きたいとの気持ちが大きくなり、思いきることができました。

現在の職場で辛く苦しい状況の中、上司や周囲の方々に何らかの配慮や協力を依頼しても手を差し伸べていただけないようでしたら、年齢や家族構成、あなたの立ち位置や健康状態などいろいろ考えなければいけないことはありますが、しんどいと感じながら働き続けて心を壊して結局のところやめてしまった方々をたくさんみてきました。とても悲しいことです。そんなことになる前に転職を考えられてもよいかもしれません。程度にもよるかとは思いますが、心の病が発症してしまうと立ち直るのには時間と周りの理解が必要となります。健康あっての労働ではないでしょうか。

契約社員の更新時期にあわせてデパートを退職し、再び集団面接会で電話交換手を求めている企業様の面談を受けることができました。そこでは、電話交換の仕事が大好きだとのことを必死にお伝えしました。試験内容は簡単ですが、電話オペレータ技能認定証を取得していたことは採用に大きく影響していたようです。それは就職後も健常者の交換の方々からもしっかり基礎を学んでいるとのことでいちもく置かれました。資格はすごい力を持っているのだと感じました。

私は現在も大好きな電話交換手として働かせていただいています。その影には、多くの方々との出会いがありました。方向を示してくださった方、学びを与えてくださった方、心の支えとなってくださった方、私を信じて応援くださった方々に心から感謝いたします。

近年は代表電話をもつ企業が少なくなってきましたが、私の経験がどなたかの参考になりましたら幸いです。近い将来、あなたが笑顔で働いておられることを心から願っています。

事例11:男性 図書館職員

見え方…全盲

Q&Aで質問に答える形で回答しました。

Q1
高校時代に「見えている仲間たちとどうすれば距離を縮められるかを悩みながら追求した日々」について、最も悩んでうまくいった事例があれば教えてください。

A1
地域の高校に進学した際、大きなコンプレックスとなったのが、クラスメートに自分から積極的に声を掛けられないことでした。盲学校では3人クラスでしたので、40人クラスとわかっていても、誰がどこにいるか把握できず、助けを求めたら面倒だと思われるのではないかという怖さがなかなかぬぐえませんでした。少しずつその壁を低くできたのは、部員100名を超える軽音楽部に入り、どんな時に困るか、説明する練習を積めたおかげです。2年生のクラス替えで、4月に「クラス開き」という行事がありました。各自が今後の目標や将来の夢を話す場で、自身の弱さを伝えられたことがその後の変化に繋がったと思います。

Q2
大学で健康心理学を選んだ理由とクリティカルシンキング等、思考法が就活を支える何かに役立ったことがあれば、具体的に教えてください。

A2
皆さんが耳にしたことのある臨床心理学では、心に悩みや辛さ、苦しさを抱える方々に対して、課題の解決を目指します。一方、健康心理学の歴史は比較的新しく、現在、健康に生活している方々にもその質を保てるようサポートすることが大きな特徴です。私は、選択制授業を取り入れている総合学科の高校で学びました。3年生の1年間、自分の決めたテーマを調べ、レポートにまとめて発表する「課題研究」という授業がありました。そこで、以前から興味のあったカウンセラーについて調査やインタビューを進めながら、健康心理学科のある大学進学を選びました。障害の有無に関わらず健康は重要なテーマですし、実験や統計処理など、見えないことで難しい内容も臨床心理学よりは少ないことも決め手になりました。クリティカルシンキングは、大学1年で初めて授業を受けた際、理論的に考える大切さを実感し、担当教授のゼミに進みました。就職活動では多くの不可解な出来事に遭遇しましたが、なるべく感情的にならず、筋道を立て、問題点はどこにあるのかを考えようと試みたことが自分自身を成長させてくれました。

Q3
全盲の方の就労として、インターンシップによる経験や非常勤としての入職等は定職への一つのヒントになると考えます。これらを見つける方法(経験上で構いません)と入った中での心構えや実践したことを教えてください。

A3
私が就職活動を行ったのは今から10年以上前に遡りますが、好きに使える時間が多かったと実感しています。視覚障害関係の団体や集まりに出かけたり、メーリングリスト等に参加したり、インタビューや実験への協力、学内でのボランティアに申し込むなど、様々な立場の方と知り合えたことで視野が広がり、アンテナを張るようになりました。現在は人材バンクをはじめ、Lineのオープンチャット、ツイッター、フェイスブックなどのSNS、オンラインの普及など、使いこなしたり使い分ける難しさはありますが、情報を得やすくなった気がします。インターンシップで心がけたことは、「ポイントを絞ってメモを作る」ことです。私は、素敵だと感じた先輩の声掛けや心配り、ふるまいと、自分自身が感じた課題を短く記録していました。今でも、参加したからには何か持ち帰りたいと、「ネタ集め」を意識しています。

Q4
どんなスキルがあれば視覚障害者は職に付きやすいと思いますか?

A4
幅が広く非常に難しいですが、私は「バランス」が重視されるのではないかと考えます。もちろん、多くの資格を取得していると強みになりますし、採用過程で評価されることは間違いないかと思います。一方で、失敗や達成感を味わって、専門性を発揮できる側面も小さくありません。私は点字図書館に勤務していますが、点字の規則を理解し、読み書きがスムーズにできれば務まるかと問われると、ノーだと答えます。パソコンや読書機器など最新の話題についていくことも求められますし、ボランティアの方々と気持ちよく接することができなければ長く続けるのは難しいからです。そして、スキルからは少し離れますが、人前で体験談をユーモラスに話せることと、自らの障害をコンパクトに伝えられること、これらは私自身が追い求めているテーマです。

Q5
面接の際、自己アピールで工夫したことは何かありますか?

A5
率直なところ、面接にすら進めないという事例の方が多く、浅い経験しか持ち合わせていません。合同企業面談会では、大半が視覚障害(全盲)の説明に時間を取られていましたし、周囲が騒がしいため、集中できないことも多々ありました。公務員試験などでも、出来る限り仕事をイメージしながらの受け答えを心がけましたが、見た目が重視されるため、言葉だけでは押しが弱い実情を痛感する日々でした。そこで、尋ねられた事例はメモに残し、今でいう「よくある質問」として持参したことがあります。その際、漢字変換の話や、細かなレイアウトを整えるのには限界があることなど、どのように作成したかを補足しました。また、面接官に尋ねてもらえるよう、さり気なくノートパソコンや点字ディスプレイを出し、活用事例の紹介を試みたこともあります。当初は、履歴書の充実に力を注いでいましたが、やり取りの中で読まれていないと感じる場面も増え、いかに簡潔に書くかを模索しました。今では、必要なサポートを受けられれば、動画を作成する方法もあるかもしれません。

Q6
視覚障害者の就職について社会に向けて何か言いたいことはありますか?

A6
どのような障害でもそうだと思いますが、当事者と対話し、視覚障害のイメージを変えていただきたい、この一言に尽きるかと思います。よく、「8割以上の情報が目から入る」と言われますが、私たちは残り2割の情報だけで生活しているわけではないはずです。そうした「生の声」を吸い上げ、表面的な固定概念にとらわれないことが第一歩だと感じます。現在減ってきていると良いのですが、重度障害=使えない、といった風潮で面接が進んだことも少なくありません。私たちに企業や業界の研究が必要なように、障碍者を採用する担当者には、「見えない・見えにくいことの実態研究」が不可欠ではないでしょうか。そのために、『あまねく届け! 光』が果たす役割も大きいと思っています。